小説・めぞん一刻 著・宮武宏尚 (2/2)

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小説・めぞん一刻【早春】 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【桜樹】その1 written by 宮武宏尚
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小説・めぞん一刻【書簡】 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その1 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その2 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その3 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その4 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その5 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その6 written by 宮武宏尚
小説・めぞん一刻【戸惑】その7 written by 宮武宏尚


#7 小説・めぞん一刻【戸惑】その1 著・宮武宏尚
#7/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 4:42 (305)
小説・めぞん一刻【戸惑】その1 著・宮武宏尚
★内容



 《 皐月の空 》


 薫風。
 まさに、その言葉がぴったりと合う、よく晴れた日だ。
 若葉の香りを漂わせて、風が僕の周りを通り過ぎて行く。
 太陽は、だいぶ高くなってきて、風が吹かない日溜りにいると、もう皮膚が
じりじりといい出すかのように、陽の光も強くなってきている。
 初夏だ。
 通りを行く人々も、白い服に着替えていて、空の青とよく似合う。
 僕はよく、初夏を緑と青と白の季節だ、と例えて言う事がある。緑は、木々
の葉の色を、青は、一年中で一番青く見える空を、白は、人々の服の色とこじ
つけて、夏の雰囲気のデモンストレーションをしているかのような雲を指して
言っているのだが、日々暑くなっていくにつれ、その自分の考えた言葉に、ま
すます自身を持ってきている、今日この頃である。


 相変わらず、元気な子供達だ。
 少し動いただけで、汗が流れ出て来るような陽気なので、子供達は、おでこ
や首や脇辺りを汗いっぱいにして、元気にはしゃいでる。
 その子供達を相手にするから、僕も汗だくになるのでアディダスのスポーツ
タオルを首に掛けている。もちろん、子供達の汗を拭いてやるためでもある。
 子供達は汗を拭かずに砂場で遊んだり、ころんで運動場の土がついたりする
ので、顔や手足なんか泥だらけになってしまい、真っ白い服が、ところどころ
茶色になっていたり、真っ黒になっていたりする。
 そんな子供達を捕まえて、タオルで拭いてやりながら、
 「まるで、ぶちの犬みたいだな。」
などとか言うと、子供達はいつも決ってキラキラした笑顔で、
 「アハハハッ。」
と応えてくる。
 可愛いものだ。


 うちの春香ももう少ししたら、泥だらけになって帰って来るようになるんだ
ろうなぁ。
 その泥だらけの春香を見た響子の顔が想像できて、思わず含み笑いをしてし
まった。
 その時、こういんじゃないだろうか。
 「まぁた、春香は泥だらけになってぇ。しょうがないなぁ・・・。洗濯する
 お母さんの事も考えてよね。」
 僕は、響子が春香にそう言ったら、横からこう口を出そうと思っている。
 「いいんじゃないの、元気があって。君も覚えがあるでしょ?」


 ちょっと前の話だけど、お義父さんから古いアルバムを見せてもらったこと
がある。
 その始めの方のページに、泥だらけになって他の数人の近所(?)の子達と、
どろんこ遊びをしている3歳の頃の響子の写真を、僕が見つけたのである。
 小学校に入学する前までは、かなりのおてんばだったようで、お義父さんや
お義母さんを心配させていたそうだ。
 その写真を僕が見た、ということで、響子がやけに恥ずかしそうにしていた。
 まぁ、僕は響子の弱みを握っている、とでも言えるのかな。といっても、僕
も彼女にたくさん弱みを握られているから、お互い様ということだろう。


 「どーしたの?先生ぃ。一人でにやにやしちゃってぇ。」
 「え?」
 「気持ち悪いなぁー。」
 「ご、ごめんごめん。つい考え事しちゃってね。」
 「変なのぉー。」
 僕は、子ども達にすまなさそうな顔をして、頭をかきながら笑った。
 子供達は、またキラキラした顔を見せた。


 「先生ぇーっ!飛行機やってよー。」
 「あ、私もー。」
 「ぼくもー!」
 「ぼくもしてー!」
 わーっ、と言いながら十人以上もの子供達が、僕の周りに駆け寄ってきた。
 「わ、わかったわかった。順番だよ。それじゃあ、じゃんけんで順番を決め
 ようね。」


 飛行機と言うのは、僕が彼らの一人一人を肩車の状態から、体を高く空に向
けて持ち上げること。まぁ、「高い高ぁーい。」である。さらに僕は、子供を
持ち上げたまま運動場を一周ぐらい走るのである。
 僕としては、これは結構キツイのだが、子供達は自分が空を飛んでいる、と
でも思うのだろう。とても喜んでくれるので、嫌な顔は出来ない。
 僕が体を持ち上げて走ってあげると、彼らは腕を真横に伸ばし、足を揃えて
ピンと伸ばして、自分を飛行機にさせてしまう。そして、鳥がのんびりと空を
飛ぶように、彼らはのんびりとした顔で楽しそうである。
 そんな顔に、僕は弱いのだ。


 うん?そういえば、子供って本当に飛べるのかも知れないなぁ。遠くの方で
遊んでいたはずの子供が、ふと振り向くと、自分の後ろにいたりすることがよ
くある。
 子供は飛べるんだろうなぁ。
 おそらく、自分が人間だと自覚し始めたら、飛べなくなるのかもしれないな。


 「先生ぇー、決まったよぉー!」
 「よーし、誰からかな?」
 「ぼくーーぅ!」
 「よーし。」
 僕は中腰になり、その子の両脇腹を両手で持ち、一旦僕の肩に乗せる。ここ
からが力がいるところで、手を逆手にして、ぐっと空に向けて持ち上げた。
 「わーーーいっ!」
 持ち上げている子だけでなく、周りの子供達も一緒になって歓声をあげた。
 みんなが楽しんでいる。
 「そーれ、いくよぉー。」
 僕は走りだした。
 遊戯室の前から砂場へ、そしてそこからは門の方へと運動場をゆっくりと走
った。
 僕が持ち上げている子は、両腕、両足を精一杯伸ばし、
 「ブーーーン」
とか言っている。
 飛行機になりきっているようだ。
 他の子供達はといえば、僕の後をずっと追って走ってきている。
 みんな、本当にいい顔をしているなぁ。


 「五代先生ーーっ、お電話ですよーー!」
 「へっ?」
 「五代先生ーーっ!!」




《 TEL.ME? 》


 僕は足を止めて、遊戯室の方を振り返った。
 「お電話でーーすっ!」
 先月、しいの実保育園に新しく入ってきた、泉さんの声だ。
 「はーい、今行きます。」

 僕は、持ち上げていた子を肩に乗せて直してから、地面におろした。
 「ごめんね。また後でね。」
 「えーーっ。」
 ちょっと顔を曇らせた。
 「ごめんごめん。電話がすんだら、また続きをしてあげるから。」
 「絶対だよぉ。」
 「うん。」


 僕は小走りで遊戯室に戻り、上履きにはきかえて、職員室に入って行った。
 「はい、こっちの電話です。」
 「どうも。」
 受話器を取る前に尋ねてみた。
 「誰から?」
 泉さんは応えた。
 「さぁ、名前言ってくれないんですよ。」
 「そう。」

 僕はオルゴールが鳴っている受話器置きにある、黒い受話器を手にした。
 「もしもし、お電話代わりました。五代ですが。」
 「あ・・・五代さん?」
 女の人の声だ。
 「あの・・・。」
 「・・・・・・」
 「どちら様でしょうか?」
 「わかりませんかぁ?」
 わかりませんか?と言われても・・・・ねぇ・・・。でも、確かに聞き覚え
のある声ではある。
 「十河です。」
 相手の人は言った。
  「と・・・がわ・・・さん?」
 ますますわからなくなった。
 僕の知っている人の中では・・・いや・・・待てよ。
 まさか・・・いやいや。
 とりあえず、聞いてみよう・・・
 「もしかして・・・旧姓が七尾さんっていうんじゃ・・・?」
 「そうです。こずえです。」
 「こずえちゃん?」
 !!

 まぁ〜、なんと久しぶりだろうか。
 「いや〜、本当にお久しぶりだね。」
 なんとなく話にくいけど・・・昔の事だから、割り切って話そう。
  「ええ、本当に・・・」
 なんか声が沈みがちのようだ。
 「元気だった?」
 「うん・・・」
 沈んでるなぁ。
 「で、何か用事なの?」
  「うん、電話ではなんだから・・・すぐに会えないかな・・・?」
 このわがままさは、相変わらずのようだ。
 僕は、右側にある黒板の上の掛け時計を見た。
 短針が十一時と十二時の間にあり、長針がちょうど左真横を指している。
 「じゃあ、昼休み・・・12時半に・・・」
 「保育園のそばのアルフヘイム・・・『妖精館』ね。」
 「あれ、来れるの?」
 「うん、近くまで来てるから・・・」
 それは都合がいい。
 「それじゃ、後ほど。」
 「うん・・・」
 で、こずえちゃんから電話を切った。
 僕も受話器を置いた。
 ほんの4〜5分の通話時間だったようだ。

  しかし、余りにも突然だ。
 それに、電話での声は、以前みたいにいきいきとしたものではなく、変に落
ちついた物だった。
 「だれからなの?五代君。」
 隣の机で、帳簿を書いていた林原さんが聞いてきた。
 「いやぁ・・・昔の友達ですよ。」
 「あ〜ら。それだけかな?」
 黒い表紙の帳簿に、細い水性ペンを走らせながら言った。
 「な、なんですか?」
 「ふふふ・・・あらやだ。間違えた。」
 ペンを置き、右手前のブックシェルフに手を伸ばし、修正液を取った。
 「ま、見つかんないようにね。」
 僕はむっとした。
 「やらしい言い方だなぁー。何、想像してんですか?」
 修正液の蓋を開けたら、独特のニスの臭いがしてきた。
 「はははは。」
 「ねー、何の話ですかぁ?」
 泉さんが話に入ろうとして、本棚からこちらにやってきた。
 「いいの、何でもない事なのよ。ね、五代君。」
 僕に振り向いて言った。
 「そ・・・そうだよ。何でもないんだよ。」
 本当に何でもないんだから・・・




《 ちょっとぉ・・・ 》


  十二時半少し前。
 弁当を食べてから保育園を抜けて、保育園から道路を二つはさんだ角にある
『妖精館』に行った。
 ここはコーヒーが上手いとの評判でよく客が入るところである。僕もよく来
る店なのだ。
 こげ茶色した大きな木のドアを押し開け、中に入った。頭の上では、小さめ
のカウベルがカラカラカラと軽く鳴り響いた。
 「いらっしゃいませ。」
 ウエイトレスのやや高い声がした。

 店内を見渡すと、昼休みで出てきているサラリーマンやOLで席はいっぱい
だった。
 よく見てみれば、店の奥の壁際、ちょっと薄暗いところにあるテーブルに、
久しぶりのこずえちゃんがうつむきかげんで座っているのを見つけることがで
きた。
 ちょっと見た目では、そんなに変わってはいないようだ。
 しかし、以前は窓際の席ばかりわざわざ選んで座っていたのに・・・

 僕が来たことに気づいていないらしい。
 そのテーブルに近づき、声をかけた。
 「やぁ、お久しぶり。」
 うつむいていた顔をすっと持ち上げ、僕を見た。
 「あぁ、五代さん・・・」
 少し微笑んで、
 「ごぶさたしてました・・・」
 僕はこずえちゃんの向いの席に座った。
 彼女の前には、ホットコーヒーと袋を開けたおしぼりが一つずつ。
 「いやぁ〜、突然の電話だったんで、びっくりしたよ。」
 「ごめんなさいね・・・忙しいところを・・・」

 ウェイトレスがやってきた。
 「いらっしゃいませ。」
 僕の前におしぼりを置き、続けて水の入ったコップをカタリと置いた。
 「ご注文は?」
 「あ、ホットお願いします。」
 「かしこまりました。」
 ペコリと軽くおじぎをして、ウェイトレスはカウンターの方へ行った。
 ”ホット、ワン”という声が聞こえた。

 「元気にしてた?」
 「うん。」
 僕は白いおしぼりの入った袋を手に取った。
 「あちっ。」
 やけに熱いので左手右手、左手右手と交互に持ち換えながら冷やすとともに
手に慣らしていた。
 「そっか・・・」
 「・・・・・・」
 「でも、あれからどれくらい経ったのかな?」
 おしぼりを右手に持ち、どうやって袋を開けようか考えた。
 「あれから・・・って?」
 「最後に会った時から。」
 やっぱり、おしぼりを立てに持って音を鳴らして開けよう。
 僕は実行に移した。
 ポン、といわして袋を破り、おしぼりを取り出した。
 「そうね・・・。」
 少し考えて、
 「・・・二年半になるのかしら。」
 「もうそんなになるのかぁ。」
 おしぼりで両手を拭いた。
 「時が経つのって、遅いようで早いんだね。」
 「そうね。」
 「で、名古屋には慣れた?」
 彼女はコーヒーカップを右手で持ち、コクンと一口飲んだ。
 「うん、もうすっかり名古屋人よ。」
 名古屋弁独特のイントネーションでしゃべってみせた。
 そして、カップをテーブルに置き、軽くカチャリと鳴った。

 おしぼりをたたんで自分の水の入ったコップの横に置き、僕は続けた。
 「こっちにはいつ来たの?」
  彼女はうつむいたままだ。満足に僕の顔を見ようとしない。
 「うん・・・さっき。」
 「え、さっき・・・なの?」
 「うん。」
 「・・・」
 「ほんの1時間前かな。」
 「・・・」
 僕は水のはいったコップを右手で持った。
 「どうしてそんなに急に・・・」
 コップを口に運び、水を口に含んだ。
 「主人と別れてきちゃった。」
  ブホッ!!
 僕は水を吹き出してしまった。
   

#8 小説・めぞん一刻【戸惑】その2 著・宮武宏尚
#8/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 4:47 (243)
小説・めぞん一刻【戸惑】その2 著・宮武宏尚
★内容




《  雑感テーブル 》


 吹き出した水が少し鼻に入ったみたいだ。
 「ご、ごめん。」
 おしぼりで濡れたテーブルをキュキュッと拭き、気を取り直して静かに聞い
てみた。
 「うそ・・・でしょ?」
 ちょっと間があって、
 「そう。」
 僕の顔を見て、真顔で応えた。
 !?
 「僕をからかってんの?」
 「そういう訳じゃないけど・・・」
 またうつむいた。

 「じゃ、どうして?」
 「実家に用事があってね・・・」
 「ふ〜ん。」
 「家に着いたら何だか急に五代さんに会いたくなっっちゃって・・・」
 コップの半分まで水を飲み、テーブルに置いた。
 「だんなさんとでしょ?」
 「ううん。」
 彼女は首を小さく横に振った。
 「え?」
 「いえ、たいしたことじゃないから・・・ね。」
 それ以上は、聞かないことにした。
 「五代さん・・・」
 「はい。」
 「迷惑だった・・・かな?」
 顔をあげていった。
 「お待たせしました。」
 ウエイトレスが来て、僕の前にコーヒーカップを置いた。
 「ども。」
 そして一枚のオーダー票を置いてカウンターに歩いていった。
 「・・・いや、そんなことはないよ。久々に声を聞いたからね・・・ね。何
  だか懐かしくて嬉しいよ。」
 「本当?」
 「本当。」
 彼女の顔がパッと明るくなった。
 「良かったぁー。」
 僕は砂糖をスプーンで一杯入れ、小さく白いポットに入ったミルクをコーヒ
ーに混ぜた。黒いコーヒーに白いミルクが広がり、廻りながら打ち解けていく。
 「でも、何か僕に話したいことがあったんじゃないの?」
 「いや・・・いいの。」
 「僕に出来ることだったら・・・いいんだけど。」
 「ありがとう。でもいいや。」
 「そう・・・」
 「あー、何かスッとしちゃったな。」
 驕@彼女がコーヒーカップを口に運んだので、僕もカップを持ち、一口飲んだ。
 あちっっ。
 思ったより熱かった。ちょっと舌をやけどしたみたいだ。
 それでも一口分のコーヒーを喉に通した。喉元過ぎれば熱さ忘るる、とは言
うけど、胃の中が熱く感じる。
 僕はカップを戻した。カチャリ、という音が軽く響く。

 「ふふっ。」
 こずえちゃんが突然含み笑いをした。
 「どうしたの?」
 「いえね・・・前の事ちょっと思い出しちゃったの。」
 「前の事って?」
 「もう数年前の事。」
 「数年・・・前?」
 「こうして向かい合って座っていた時。」
 「あぁ。」
 「懐かしいな。もう思い出の中・・・ね。」
 「うん・・・」
 僕はなんとなく不思議な気持ちがしている。現実と過去とが入り交じったよ
うな・・・過去にも何度か味わったことのある感じ。
 思い出とはこういう感じの事を指すのかも知れない。


 それからこずえちゃんは話し出した。名古屋の事を色々話してくれる。が、
自分自信の事は一切話そうとはしない。
 なんだか自分のうさを晴らしているように見えるのは、気のせいだろうか。
 僕は、そんな彼女の話しに相づちを打つぐらいしかできなかった。


 話が一段落ついた時、こずえちゃんは左手首にしてある小さな腕時計を見た。
 「あ、もう1時越えちゃってる・・・」
 「え。」
 辺りを見ると、道理でお客が減っているわけだ。
 「五代さん、保育園に戻らなきゃいけないんでしょ?」
 「あぁ・・・うん。悪いけど、この辺で・・・」
 「はい。」
 彼女はオーダー票を持ってすかさず立ち上がった。
 「あ、僕が払・・・」
 「いいの。私が呼び出したんだから、おごらせて。」
 「いや、それは遠慮するよ。」
 「そう・・・そうね、それじゃワリカンね。」
 「へ?」
 「350円。」
 「あ・・・あぁ、350円ね。」
 ズボンの左後ろのポケットから小銭入れを取り出し、350円きっちり出し
た。
 「はい。」
 「ありがとう。」
 彼女は受取り、そのままレジへ行って清算した。

 僕は先に喫茶店の外に出た。
 「ありがとうございました。」店の人の声に続いてこずえちゃんが出てきた。
 僕はなんとなく空を見上げた。
 空の青い部分が白く厚い雲のためだいぶん少なくなっている。
 つばめや雀達も低いところを飛んでいる。天気は下り坂のようだ。

 「五代さん。」
 「はい?」
 「今日はありがとう・・・」
 「いえいえ、こちらこそ久しぶりに会えて嬉しいよ。」
 「ありがとう。」
 彼女は少しうつむいた。
 「五代さんって・・・」
 「何?」
 一拍おいて、
 「全然変わってないのね。」
 「は?」
 なんとなくずっこけてしまった。
 「そ・・・そう?」
 「うん・・・だから・・・かな、なんだかほっとしちゃった。」
 彼女はにこっと笑った。
 「じゃあ、お仕事、頑張って下さいね・・・今日は本当にありがとうござい
  ました。」
 ぺこりとおじぎをした。
 僕もつられて会釈をした。
 「ど、どうも。」
 「それじゃ、お元気で。さよなら。」
 そう言って、彼女は小走りに去って行った。
 「さよなら・・・」
 あまり好きじゃない言葉だけど、つい口から出てしまった。


 しかし、一体何のために、彼女はわざわざここまで僕なんかに会いに来たん
だろうか。
 う〜ん、わからない。

 考えるのは後にして、とにかく、僕は走って保育園に戻った。



    トボ トボ
《  徒歩徒歩と・・・  》


 夕方、人々が家路へと向かう中に僕もいた。
 たまたま、いつもより早く保育園を出たので、ラッシュ時の一番すごい時と
ぶつかってしまい、時計坂のちょっと年季のいった駅は小さい駅ながらも人の
波だ。
 その中を泳ぐようにして僕は歩いていた。
 バス・ターミナルを横切り、大通りの交差点を渡って商店街に入って行く。
ここまでくると、駅前よりかはだいぶん人が少なくなる。
 ま、団地とは方向が違うからだろうけど。
 団地へ行くには駅からまっすぐ北へ行かなければならないけど、僕の住む一
刻館は駅より南の小高い丘陵地にある。こちらの方も一応住宅地であるから人
がぐっと少なくなったとは言っても、家路へと急ぐ人達は結構多い。


 行く手の先の方に踏切が見えてきた。すると、

< カーン カーン カーン >

 のやや甲高い警報機の音。
 しばらくして、遮断機がゆっくりと降りて交通を止めようとしていっている
のが見える。
 この時間帯だと、列車が上り下りの両方向とも通って行くから、長い間待た
なくてはならない。
 僕は歩くスピードを心持ち緩めた。
 だいぶん踏み切りに近づいて来ると、上りの列車が走って行き、通り過ぎる
時には遮断機の前まで来ていた。
 足を止め、近くに来るとやかましいぐらいの警報機の音を聞きながら、何気
なく視線を空に移した。
 昼前はあんなにスカッと晴れていたのに、いつのまにかどんよりと厚い雲で
覆われている。今にも泣きだしそうなぐらいだ。
 梅雨が近いせいか、天気の移り変わりが近頃やけに早くなっていて、晴れの
日よりは曇りまたは雨の日の方が多くなっている。考えてみると、今年のこの
時期は例年とちょっと違うようだ。いつもだと5月には真夏の暑さの予行演習
のような日が必ず数日はあったものだが、今年はそれが無いように思う。その
かわり、梅雨のはしりとか、上旬の頃は名残霜まであった。天候が狂ってきて
いる感じがするのは気のせいなんだろうか。

 < ガーーーーッ >

 下りの列車が車や人の列を横切っている最中には、レールの継目を車輪が渡
っていく際の、

 < ゴトンッ ゴトンッ >

の重い音が周期的に聞こえてくる。
 そして様々な思いを載せた列車が西の方へと去って行くと、警報機が鳴り止
み、遮断機が開いた。その瞬間、止まっていた、車や人の流れが堰を切って動
きだし、互いにすれ違って行きだした。
 僕も歩き出し、踏切を渡った。


 商店街中を歩きながら、ふと昼間の事を思い出した。
 こずえちゃんの事である。
 確かに、以前の僕が知っていた彼女とは様子が違っていた。家庭と言うもの
と時間と言うもの二つが次第に彼女を変えていくのは当然の事だ。
 それにしても、あの沈んだ声。喫茶店での作り笑顔。僕にはそう見えた。
 まさか上手くいってないんじゃないだろうか?いや、詮索はやめておこう。
 しかし、なんで今更僕になんか会いにきたのだろう。
 相談事とか、もう少し突っ込めば・・・いやいや。それは考えすぎだ。
 でも・・・まさかねぇ・・・もしそうだったら・・・


 「五代さん。」
 「はい。」
 「あのね・・・」
 こずえちゃんは思い詰めた顔のようだ。
 「・・・・・・」
 「私と・・・」
 「何?」
 「私をどこか遠い所に連れていってっ!!」
 僕はコーヒーを吹いた。
 確実に鼻に入ったみたいだ。
 「ど、ど、ど・・・どうして?」
 僕はたじろいだ。
 「もう、こんな生活いやなの。」
 目に涙を溜めてそう言った。
 「で・・・でも・・・ねぇ。」
 「わかってる。あなたが今どんな状況であろうとも、あたし構わない。」
 「構わないといっても・・・僕は・・・」
 「あたし、頼れる人はもう五代さんしかいないもの。」
 「そんなぁ。」
 涙を流してはいるが、その眼の真剣さは初めて見るものだ。
 彼女は僕の左腕をぐっとつかんだ。すると、僕の周りを白く深い霧が瞬間的
に包んでしまった。
 「さぁ、一緒に・・・お願い・・・」
 「ちょっと待ってよ。なにがなんだか、さっぱり・・・」
 「私、もうどうなっても構わない。」
 いきなり、全裸の彼女がいた!
 「げっ!」
 驚いたというもんじゃない、これは。
 「さぁ、五代さん・・・」
 彼女の手が僕を抱くようにして伸びてきた。
 「こずえちゃ・・・」

 < ガツッ、ガターーーーーーーン!! >

 大きい音の後、カーネルサンダースおじさんに抱きついて、路上に倒れてい
る自分に気がついた。
   

#9 小説・めぞん一刻【戸惑】その3 著・宮武宏尚
#9/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 4:52 (295)
小説・めぞん一刻【戸惑】その3 著・宮武宏尚
★内容




 《 雨にうたれて 》


 「痛ぇ〜〜・・・」
 額の辺りを強く打ったようだ。
  起きあがろうとした時、白い目で僕を見ている通りすがりの人達が、こそこ
そと何か言っているのが聞こえる。
 「ぶつぶつ言いながら自分からぶつかって行ったのよ。」
 「まぁっ。」
 「見たところまだ若いのにねぇ」
 「かわいそうに。」
 「お気の毒ねぇ。」
 恥ずかしくて顔が赤くなった僕は急いで人形を起こした。
 ちょうどその時、店の中から様子を見ていた男の店員が出てきた。
 「だ、大丈夫ですか?」
 「はぁ・・・なんとか。」
 人形を元の位置に戻しながら、
 「気をつけて下さいね。」
 「はぁ、どうもすみませんでした。」
 道に落ちた自分のバッグを拾いながら、そそくさと僕はその場を小走りで立
ち去った。
 どうも考え事をしながら歩いているときは、体が前かがみになっているよう
で、いつも頭から何かにぶつかって行っている気がする。
 「しかし、久しぶりに妄想にのめり込んだなー。」


 頭にポツリと冷たい感触がした。
 「ん?」
 右手の平を上にして手を差し出してみると、雨がポツポツと降ってきた。
 「まいったなぁ。」
 雨足がだんだん早くなってきている。
 瞬く間に道路は濡れて、つや無しの黒いアスファルトの色がつやのある黒に
変わってきた。
 「泣きっ面にハチってとこだな。」
 ふーっとため息をつく。
 「走ろうか。」
 そう思っていると、ふいに雨の感触がなくなった。
 「え?」
 僕は後ろを振り返ると、
 「大丈夫?お兄ちゃん。」
 「郁子ちゃん。」
 郁子ちゃんが傘をさしてくれていた。


 「あぁ、ありがと。助かったよ。」
 「はい。」
 郁子ちゃんが僕の目の前に傘の柄を突き出した。
 「なに?」
 「男の人が持ってくれるんでしょ?」
 「あ、これは気がつきませんでした。お嬢様。」
 「うん、苦しゅうない。」
 「ははははっ。」
 「あははっ。」
 笑いながら僕は柄を持ち、
 「一刻館に行くんでしょ?」
 「うん。」
 「それじゃ、行きましょか。」
 僕らは歩き出した。


 「しかし、駅からずっとついてきてたの?」
 「いいえ。」
 「どこから?」
 「本屋から出ようとすると、ちょうど姿が見えたの。」
 「なんだ。」
 「でも、頭大丈夫?」
 「え・・・見てたの?」
 郁子ちゃんはうなずいて、
 「一部始終。」
 きっぱりと言った。
 「ははは・・・やっぱり。」
 「見てる方も恥ずかしかったから、すぐ声かけれなかったのよ。」
 「それはすみませんでした・・・」


 商店街を抜け、坂にさしかかった。
 「ところで、今日はなんでこっちに?」
 「家庭教師なの。」

 賢太郎の家庭教師である。郁子ちゃんは現在公立の教育学部に在籍しており、
後々の練習になるんじゃないかと考え、家庭教師の口を探していたんだそうだ。
たまたま去年賢太郎が中学3年生だったので、郁子ちゃんがお金はいらないか
ら、とさせてもらうように頼んだのである。
 賢太郎やおばさんが喜んだのは言うまでもないだろう。
 その成果か、賢太郎はしっかりと第一志望だった高校に入学している。
 で、そのまま現在も続いているわけだ。

 「え?今日だったっけ。」
  「今週だけ今日に変えてもらったの。」
 「いつもは土曜日でしょ?」
 「家のビデオが壊れているから、しょうがないのよ。」
 僕はピンときた。
 「あ〜、テレビの番組の方を優先したな。」
 郁子ちゃんはペロっと舌を出し、
 「へへへ・・・いいじゃないの。」
 「やっぱし。それに・・・当ててみせよう。郁子ちゃんの事だから8チャン
  ネル!」
 「御名答。」
 ニコっと笑った。
 「しょうがないなぁ。」
 「いいじゃないの、楽しみにしてたのに、ビデオが壊れたんだから。」
 「そんなこと言っとれるのは今の内だけだぞ。」
 「分かってますよーだ。」


 雨足はますます強くなり、道端の排水路には濁った水が勢いよく流れている。
 坂もだいぶん登ってきて、目の前の曲がり角を右に曲がればもう少しで一刻
館に帰り着けれる。
 「あれ?」
 郁子ちゃんが前を見ながら言った。
 「うん?」
 僕も前をよくみてみると、傘をさした人がこちらに向かって来ている。
 「あ。」
 「響子おばさまー。」
 郁子ちゃんが手を振った。



 《 坂の途中で 》


 響子が左手に畳んだ傘を持って駆け寄ってきた。
 「おかえりなさい。やっぱり、郁子ちゃんだったのね。」
 軽く息を切らしながら言った。
 「ただいま。」
 「どーしたの?おばさま。」
 「急に雨が降ってきたでしょ。それにこの人、傘持って無かったはずだった
  から。」
 「わざわざありがとう。」
 「優しいんだぁ。」
 「はい、傘。」
 「どもども。」
 僕は持っていた傘を郁子ちゃんに手渡し、響子から傘を受け取って傘を開い
た。
 「さ、帰ろう帰ろう。ありがとうございます。」
 僕が響子に言うと、
 「どういたしてまして。」
 僕らはくすっと笑った。
 そして、歩き始めた。


 「あ〜あ。」
 「どうしたの?郁子ちゃん。」
 響子が尋ねた。
 「ここの坂長いから、いやんなっちゃう。いつも思うなぁ。」
 「そうかしら。」
 「疲れないの?」
 「う〜ん、慣れもあるけど、あたし、坂道って好きなのよ。」
 「どうして?」
 郁子ちゃんは不思議そうな顔をした。
 「こう、登って行くでしょ。すると、つま先に自分の体重が全部かかるじゃ
  ない。だからこう・・・あぁ、自分の足で歩いているんだなぁって、実感
  が湧いてくるのよね。」
 僕は二人の会話に加わった。
 「それに、坂を歩いていて、ふと立ち止まるとするだろ。」
 「うん。」
 「その一瞬、なんかしんとした心の張りっていうのかな、そんな感じがする
  し、また坂道で振り返った時の風景が・・・う〜ん、たおやかな光に包ま
  れた姿、その少し思い出に似た遠さが好きなんだよ。」
 「へぇ〜。二人とも詩人なんだぁ。」
 「はははっ、そうかい?」
 「それじゃあ、坂を降りるときはどんな感じ?」
 「登るときの楽しみが増えて行く感じ。」
 「そう思わないとここでは生活できないわよ。」
 「ふ〜ん。」
 まだ不思議そうな顔をしている。まあ、ここに毎日住んでないと分からない
話かも知れない。


 そうこう話している内に、一刻館にたどりついた。
 「ばうっ。」
 「こんにちは。惣一郎さん。」
 郁子ちゃんが玄関で傘をたたみながら声を掛けた。
 「ただいま。」
 「ただいま、惣一郎。」
 「ばうっ、ばうっ。」
 ちゃんと返事をしてくれる。ほんと、律儀な犬だ。おそらく飼い主に似たん
だろうと思う。
 傘をたたんで一刻館の中に入った。

 「おっ、郁子ちゃん、いらっしゃい。」
 一の瀬のおばさんが丁度玄関にいた。
 「こんにちは。」
 「五代くん、おかえり。」
 「ただいま。」
 「いつもすまないねぇ、郁子ちゃん。」
 「いいええ、こちらこそ。で、あたしの生徒さんは・・・」
 ドタドタドタと賢太郎があわてて3号室から飛び出してきた。
 「こんにちはー、郁子ちゃん。」
 相変わらず、郁子ちゃんの前に来ると本当にニコニコしているやつだ。
 「あ、五代のおにいちゃんもおかえり。」
 「も、はないだろーが。」
 スニーカーを脱ぎながら、少しむっとなった。
 「それじゃ賢太郎くん、しっかりと勉強してね。」
 響子が言った。
 「はいっ!」
 「返事だけはいいんだがなぁ。」
 「さ、始めましょうか。」
 「うん。」
 「ドジったらがつんと怒ってやっていんだからね。それぐらいしなきゃ、分
  からない子だから。」
 「だーいじょうぶ、まーかしてっ。」
 とたとたと3号室に入って行ったのを見て、僕らは自分の部屋に行った。



 《 一大事? 》


 ここで少し説明がいるだろう。
 3号室は去年から、賢太郎のために勉強する目的で特別に貸しているのであ
る。これは、賢太郎の昔からの希望を、響子の粋な計らいでかなえさせてあげ
たのだ・・・

  時は午後10時。僕は翌日の準備を、響子は突然泣きだした春香をあやして
いた時である。
 隣の部屋で、
 「母ちゃんも四谷さんも静かにしてよー。あー、勉強なんか出来やしない。」
 賢太郎は訴えるように言った。
 「いーじゃないか。お前は父ちゃんと母ちゃんの子なんだから、いくらやっ
  てもムダムダ。」
 おばさんは日の丸の扇子を両手にして踊っていたようだ。
 「それが自分の子どもに対しての言葉かっ。」
 すると四谷さんは、
 「早くからこーゆー環境になれてた方がよろしいんです。いい例が五代くん
  ですよ。」
 「さー、四谷さん、飲もう飲もう。」
 「しかし、なんかいまいちノリが悪いですなぁー。」
 「やっぱり五代くんを引っ張ってこようよ。」
 連れて行かれてたまるか、と思っていると、
 「あなた、ちょっと変わって。」
 春香を僕に手渡し、響子は部屋を出て行った。
 「そうしましょう、そうしましょう。それでは。」
 四谷さんの声が聞こえると同時に、
 「もう、いーかげ・・・」
 「いーかげんになさいっっ!」
 響子がバンとドアを開け、怒鳴った。
 「どしたの?管理人さん。」
 とぼけて言ったのは、おばさんだ。
 「一の瀬さん、賢太郎くんは今年3年生なのをご存知でしょ?」
 「もちろん。だから、ほら、遠慮してるじゃないか。」
 「何がです。」
 「飲む量を減らしている。」
 「なるほど、それはそうですな。」
 すると、
 「どわはははは。」
 おばさんと四谷さんは笑った。
 「変わっているように全然見えませんけど。」
 響子が言った。
 「しかし、この子勉強なんかやってる素振りなんかちっともしないんだから。」
 「あのね、この姿が目に入らないのかっ、母ちゃん。」
 少し間があってから、
 「わかりました。それじゃあ、賢太郎くん。明日から特別に勉強部屋を貸し
  てあげます。」
 「え?!」
 3人ともびっくりしたようだ。
 「開いている部屋を貸してあげますよ。」
 「ほんと?」
 賢太郎はまだ信じられない様子だ。
 四谷さんは、
 「それはまた、思いきった・・・」
 「ほんとかい?管理人さん。」
 「えー、その方が勉強に打ち込めれるでしょうから。」
 「ほんとにほんと?」
 「本当。」
 「しかし、部屋代はどうなるんだい?」
 おばさんは少し酔いが覚めたようだ。
 「当然、頂きませんわ。私の一存で賢太郎くんに貸すんですから。」
 「ありがとう、管理人さん!」
 「その代わり、しっかりと勉強して志望の学校に入るんですよ。」
 「うん、約束するっ。わぁー、嬉しいなぁ。これで、人生を生きて行くのに
  希望の光が見えてきたよ!」
 「そんな大げさな・・・」
 「それでは、賢太郎くんの成功を祈って。」
 「かんぱぁーい。」
 「また始めた・・・。」
 賢太郎と響子は大きくため息をついた。

 ・・・・・・ということが、去年の春にあったのだ。僕はこの時、管理人室
の方で一部始終を聞いていた。みんな声が大きいから、全部筒抜けだった。ま
た、ちょうど春香をあやしていたし、出て行くほどの事でないだろうと思った
のである。
 まぁ、それ以来、賢太郎は滅多に開けることのなかった3号室を勉強部屋と
して使い、そのおかげか無事志望校に入学、今でも引き続いて使っているので
ある。

 「使ってこそ、お部屋は生きるんですから。」

 これは響子の談である。
 そういえば、僕が使っていた5号室は、管理人室に入いりきらなくなった物
を一時置いておく物置代わりになってしまっているが、これも、部屋を使って
いる内に入るんだろうな。
   

#10 小説・めぞん一刻【戸惑】その4 著・宮武宏尚
#10/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 4:57 (215)
小説・めぞん一刻【戸惑】その4 著・宮武宏尚
★内容




 《 胸騒ぎ 》


 「じゃーね。賢太郎君。」
 「ありがとうございました。」
 玄関の方で郁子ちゃんと賢太郎の声がした。
 テレビの上の時計を見ると、8時少しを回っていた。
 「それじゃ、行こうか。」
 僕は立ち上がり、響子に言った。
 「そうね。」
 「宵っぱりの春香ちゃん、お風呂に行きましょか。」
 親指をしゃぶっている春香を抱き抱え、ドアを開けた。
 「郁子ちゃん、送っていくよ。」
 「ありがとう。あ、響子おばさまも?」
 僕の後ろに黄色と緑の洗面記とタオルを持った響子がいた。
 「ええ、ちょうどお風呂屋さんに行く時間だから、そこまで一緒にね。」

 「ん〜〜?もうすんだのかい?勉強。」
 日の丸扇子と一升瓶を持ったおばさんと四谷さんが一号室から出てきた。
 「はい。」
 「母ちゃん、もうできあがってんなぁ。」
 腕組をした賢太郎はため息をついた。
 「わはははは。どう、郁子ちゃん。帰る前に一杯?」
 「い、いいです。あたし余り飲めないし、それにもう帰らないと。」
 「そお?残念だねぇ。」
 「それじゃ、行こうか。」
 僕は下駄をはいた。
 「それじゃ、また来週ね。」
 「うん、ありがとう。」
 「気をつけてお帰り。」
 「私達はねざめ湯に行ってきますから。」
 「お気をつけてぇーっ。」
 甲高い四谷さんの声を背にして、ドアを押し開け外に出た。


 青白い街灯が黒いアスファルトの坂道を薄明るく照らす。カランコロンと下
駄の音が夜の町中に軽く響いている。
 時折、道路際の家からテレビのナイター中継の歓声が聞こえて来る。今日も
巨人が勝っているようだ。

 「あぁ、星が見える。」
 「え?」
 郁子ちゃんの声につられ、夜空を見上げてみた。
 「本当だ。久しぶりだね。」
 「あの雨で空の埃を流し落としてくれたのね。」
 「だね。」

 とりとめの無い会話が続いた。
 商店街の近くまで来たとき、不意に郁子ちゃんが言った。
 「ところでさー、お兄ちゃん。」
 「なに?」
 「昼間、保育園の近くの喫茶店で誰と会ってたの?」
 「は?」
 ドキッとした。
 「い、いや。昼間はずっと保育園から外には出なかったけど?」
 しまった。口からでまかせを言ってしまった。
 「そう?じゃあ、人違いね。」
 どうして、嘘を言ってしまったのか自分ながら分からなかった。

 「それにしても、あの女の人きれいだったなー。」
 さらにドキッとした。
 「郁子ちゃん、なぜ保育園の近くまで来てたの?」
 「学校の友達の下宿に行く途中だったの。たまたまガラス越しに喫茶店の中
  を見たら、あれ?と思ったんだけどね。」
 「ふ〜ん。」
 僕はちらっと響子の顔を見た。表情に変わった様子はない。
 よかった。何も気にしていないようだ。

 僕達は風呂屋の前に来た。
 「あ、ここまででいいわ。」
 「駅まで送っていくよ。」
 「ありがとう、でも走って行くからいい。」
 郁子ちゃんはペコリとおじぎをして、
 「それじゃ、お休みなさい。」
 カバンと傘を小脇に抱え、手を振って駅の方へ走って行った。
 「気をつけて帰るのよー。」
 「はーーい。」
 郁子ちゃんの姿が見えなくなってから、僕らは中に入った。

 しかし、この郁子ちゃんの何気ない言葉が尾を引くことになろうとは、この
時の僕には知る由もなかった・・・



 翌日−−。

 午前中の仕事を終わらせ、僕は自分の机でお茶を飲んで一息ついていた。
 突然、目の前の黒電話がけたたましい音を鳴らした。
 湯呑を置き、3回コールした時に受話器を取った。
 「はい、しいの実保育園です。」
 「あの・・・、五代・・・裕作さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 女の人の声。
 もしや。
 「五代は僕ですが。」
 「あ、こんにちは。こずえです。」

 ・・・・・・?



 《 受話器を取れば 》


 「ど・・・どうしたの?」
 顔は平静さを保たせていたが、胸の中は少しうろたえているみたいだ。
 「ごめんなさい、お仕事中。」
 「いや、ちょうど休憩なんだ。」
 ちょうど・・・?僕は何を言っているつもりなんだ。
 「今日、会えない・・・かな?」
 「う・・・うん、いいけど。」
 頭を軽く掻きながら、
 「いますぐなの?」
 ほんの少しの間、応答がなかった。
 すると、
 「いえ・・・お仕事が終わってからで・・・いいわ。」
 「それじゃ・・・」
 後ろを振り向き、行事予定表を書いている黒板を見た。
 今日は特別なことは何もないし、当番にもなっていない。定時には保育園を
出られる。
 「・・・うーん、5時半・・・以降なら構わないよ。」
 「じゃ・・・駅前のあそこで待っている・・・6時ね。」
 「え?」
 どこで待っていると言ったのだろう。
 「う、うん。6時はいいけど、あそこって?」
 「昔、いつも待ち合わせてたお店。」
 「あぁ、ちゃば亭ね。」
 「じゃ・・・待っているから。」
 「うん。」
 「それじゃ、失礼します。」

 《チン》

 軽いベルの音。彼女が先に電話を切った。
 用件を言うだけで電話を切るなんて初めてだな。前は関係の無いことをコロ
コロと話題が変わりながら話していたのだが。

 《ツー ツー ツー》

 受話器を持ったまま、僕は何かをじっと考えていた。無味乾燥な音だけが繰
り返して聞こえる。

 「どうしたの?五代君。ぼーっとして。」
 林原さんが僕に声をかけた。
 「え?あ、あぁ・・・」
 おもむろに僕は受話器をゆっくり置いた。電話機が《リン》と軽く響いた。

 「朝からずっとおかしいわよ。電話に出てもぼーっとしてるし。シャキッと
 して、シャキッと。」
 なんとなく心を見すかされたような気がしたが、それでも平静さを保ってい
るつもりで、
 「そう?いつもの通りだよ。」
 「それはそうね。」

 《ガタッ》

 椅子から落ちそうになった。
 「あのねぇ・・・」
 林原さんは水色の厚いノートブックを書類棚にしまいながら、
 「今の電話が原因かしら?」
 胸にチクリとするものがあった。
 「な、なんですか?それって。」
 「第三者の直感って当たるのよねー。」
 人事だと思って・・・
 「どうだっていいじゃないですか。」
 「そ。でも、五代君って優柔不断だからなぁ。」
 にこにこしながら、僕の対面の机にすわり、頬杖をついた。
 「人の性格、よく知りもしないくせに・・・」
 「あ〜ら、何年同僚やってると思ってるの?いい加減、分かるわよ。」
 「もう、いいじゃない。」
 僕はブスっとし、椅子を回して背を向けた。
 「はいはい。ま、せいぜい気をつけることですわね。」
 そう言って席を立ち、隣の休憩室に行った。

 しかし、女の直感って八方に利くものなのかなぁ。
 なんだか背筋が一瞬寒くなった。



 時計を見ると6時半を回っていた。僕は時計坂駅前の人混みを縫うように
走っていた。
 約束の時間は6時だ。
 保育園で母親が迎えに来のが遅くなった園児が一人いたので、その子の相
手をしていたら帰るのが遅くなってしまったのだ。

 駅前の交差点を渡り、商店街を入ってすぐの喫茶店、ちゃば亭に入った。
 階段を駆け上がり、店内を見回した。
 「いらっしゃいませ。」
 ウエイトレスさんの声。
 店の奥にこずえちゃんの姿を見つけ、駆け寄って行った。

 息が切れている。
 「あ・・・五代さん。」
 「ご、ごめん!遅くなって。」
 彼女は首を横に振って、
 「ううん、そんなに待たなかった。」
 しかし、ふと見た彼女の前にあるオレンジジュースはほとんど残っていなか
った。
 僕は向いの椅子に座った。走ってきたので額や首筋から汗が流れている。
 ショルダーバックからハンドタオルを取り出して汗を拭った。
 「本当にごめん。」
 ふーっと大きく息をすると、少しは落ちついてきた。でも、汗は止まらない。
 「いいの、あたしが無理に呼び出したから。」
 「いらっしゃいませ。ご注文は?」
 水ををコトリと置いてウエイトレスさんがいった。
 「あ、アイスコーヒーを。」
 「はい。」
 僕は一気に水を飲み干した。
 「・・・で、今日は何なの?」
 こずえちゃんはうつむいた。
 「実は・・・昨日話そうと思ってた事なの・・・」

 しばらくして、彼女は堰を切ったように話し出した。
   

#11 小説・めぞん一刻【戸惑】その5 著・宮武宏尚
#11/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 5: 4 (302)
小説・めぞん一刻【戸惑】その5 著・宮武宏尚
★内容




 《 ため息ばかり 》


 「ばうっ。」
 「あ・・ただいま。」
 一刻館の玄関に着いたとき、腕時計を見ると8時を回っていた。
 結局、駅前の喫茶店には一時間と少し居たことになる。
 「はぁ。」
 ため息をつきながら、玄関の扉を押し開けた。

 《ギィッ》

 古くて重い音がした。
 「ただいまー。」
 シューズを脱いでスリッパにはきかえると、目の前の一号室のドアが開いた。
 「おっ、おかえり。」
 一の瀬のおばさんである。
 「遅かったじゃない。」
 「うん・・・ちょっとね。」
 いつもなら、奥からパタパタとスリッパの音が聞こえてくるんだが、今日は
なぜか聞こえてこない。
 ふと、心配になった。
 「おばさん、響子は?」
 「ん?さっき春香ちゃんを連れて風呂屋に行ったよ。」
 「なんだ。」
 少しほっとした。
 「どしたんだい?元気が無いねー。」
 「そ・・・そう?」
 部屋に向かって歩き出すと背中から声が。
 「そうそう、夕飯まだなんだろ。」
 「うん。」
 「テーブルの上に置いてあるから食べといて、といってたよ。」
 「ありがとう。」

 管理人室のドアを開けると薄暗い部屋の中、テレビの上のデジタル時計の薄
い緑色だけが光っている。
 柱にあるスイッチをONにし、明りをつけた。テーブルの上には今日の日付
の入った新聞紙が大きく広げてあって、一人分のおかずを覆っていた。
 ふっと一息つき、バッグを部屋の隅に置いてから腰を降ろした。
 気持ちが少し滅入っているけど、気を取りなおして新聞紙を取り払った。
 今晩のメインは肉じゃがだった。


 食べ終わってテレビのドキュメント番組を見ながらお茶を飲んでいた。
 すると背中で扉が開く音がした。
 「あら、お帰りなさい。」
 振り向くと眠っている春香を抱いた響子が立っていた。
 「お、おかえり。」
 「お風呂に行ってたの。」
 「ん、一の瀬さんに聞いた。」
 「あ、悪いけど春香の布団ひいてくれない?」
 「うん。」
 立ち上がって、テーブルをよけて押し入れから小さい布団を取り出しタンス
の前にひいた。
 「ありがとう。」
 彼女は春香を優しく布団に寝かせた。
 「ねぇ。」
 「うん?」
 「今日遅かったわね。何かあったの?」
 僕は最初の一言を捜した。
 「か、帰り際になって一人だけ迎えに来てくれない子がいてね、相手をして
  たら遅くなっちゃって。」
 僕はてれびの音を小さくしてから座った。
 「そう、お疲れさまでした。」
 「・・・うん。」
 頬杖をついた僕は目はテレビを見ていたが、頭の中はずっと他の事で一杯だ
った。さっきのこずえちゃんの件である。


 こずえちゃんの話はこうだった。

 久しぶりに繁華街へショッピングに出かけた彼女は、偶然にも旦那さんを見
つけた。昼休みでもないのに外出していることが不思議だったけど、とにかく
駆け寄ろうとしたその時、髪の長い若い女性がその旦那さんの所に寄って行き、
そのまま二人でどこかに行こうとした。彼女は不審に思い、柄にもなくその二
人の後を追って行った。
 すると、目抜き通りを過ぎ人気の少ない通りに行き、ある白いビルの中に入
って行った。
 なんとそこはラブホテルだったそうだ。

 どこかで聞いた話だな、と僕は思いながらじっと話を聞いていると、突然こ
ずえちゃんは方を震わせて涙を流しだした。
 「まぁ、こんなところで女の人を泣かしてるわ。」
 「悪い男ねぇー。」
 ひそひそ声が聞こえて来るが、彼女はハンドバックから取り出したハンカチ
で涙を拭いながら、話を続けた。

 「それでね・・・」

 その夜、旦那さんを問いただしてみようと思っていたが、待てども待てども
待ち人は帰ってこず、とうとう夜が明けてしまった。彼女はショックと一晩中
起きていたことで何も考えることが出来なくなり、気がつくと東京行きの新幹
線の中だったそうだ。それからそのまま僕に会いに来た、という事なのだ。

 「ねぇ、五代さん・・・」
 「はい。」
 「男の人って、一体どんな事考えるの?」
 「・・・・・・。」

 僕は答えることが出来なかった。何を言っても嘘になるような気がしたから
だ。
 結局、その答はうやむやにしてしまったが、心に何かしこりがあるような気
がする。
 これでよかったんだろうか・・・


 「ちょっと、どうしたの?」
 響子が目の前に座っていた。
 「いや、ちょっと考え事。」
 「最近調子悪いの?口で言ってもらわなきゃ、分からないことだってあるの
  よ。」
 「いや、なんともないよ・・・うん。」
 僕はそう言って湯呑に残ってたお茶を飲み干したが、なんとなく響子の視線
が痛く感じた。



 翌日。
 「おはよー、先生。」
 「あぁ、おはよう。」
 子供達の元気の言い声が寝不足の頭に響く。昨日のこずえちゃんの話をあれ
これ考えてたら、満足に眠れなかった。
 「おはようございます。」
 僕は職員室に入って行った。


 今日は土曜日なので仕事は昼までである。帰り支度をしていると、隣の机の
電話が鳴った。
 横にいた早乙女さんがすばやく受話器を取った。
 「はい、椎の実保育園です。・・・はい・・・はい。五代君電話。」
 「僕?」
 「そ。」
 受話器を受け取り、
 「はい、お電話代わりました。五代ですが・・・」
 「こんちには、こずえです。」
 また、彼女であった。



 《 待ち人来たり 》


 強い日差しの中、僕は待ち合わせに指定された喫茶店のドアを押し開けた。

 <キイッ>

 軽い音とともに、
「いらっしゃいませ。」
 ちょっと低めのウエイトレスさんの声。
 キョロキョロと店内を見回す。こずえちゃんはまだ来ていないようだ。
 とりあえず、僕は窓際のテーブルについた。


 三杯目のコーヒーも冷めかけたころ、僕はふと思いだした。
 昔、彼女と待ち合わせをすると、いつもいつも待たせていたのは僕の方だっ
た。今日はその僕が待ちくたびれている。

「あの〜、失礼ですが五代さんでしょうか?」
 横からスーツにネクタイ姿の若い男の人が、僕に声をかけた。
「はい・・・そうですが。」
「あ、はじめまして。私、十河と申します。」
 そういうとともに白い名刺を僕に差し出した。
「とがわさん・・・?」
 受け取った名刺を見てみると、四菱銀行名古屋支店云々と書いてある。
「あのぉ〜、僕に何の御用でしょうか?」
「はい。」
 そのすらっと背の高い人は、言葉を探しながらゆっくりと話した。
「あ・・・あの・・・女房の事ですが・・・すっかりとご迷惑をおかけしまし
 て・・・」
「はあ?」
 僕は呆気としてしまった。が、すぐに一人の女性の顔を思いだした。
「あの・・・こずえちゃ・・・いや、こずえさんのことでしょうか?」
「はぁ。」
「すると、あなたが・・・こずえさんの旦那さん・・・。」
「はい、誠に申し訳ありませんでした。」
「まぁ、立っていてはなんでしょうから、とにかくそちらにおかけになって。」
「は、失礼します。」
 十河さんは僕の向い側に腰をかけた。

 しかし、昔の男友達と旦那が向い合わせで座っている、という図式は非常識
と言うものじゃなかろうか。

「あの・・・」
 対面が話しだした。
「はい。」
「とりあえず、この度の事を最初から話させていただきます。」
「はぁ。」
「彼女がどんな事をあなたに言ったのかは分かりませんが・・・」

 しどろもどろと言い難そうに彼が僕に話したことをまとめてみるとこういう
事になる。

 こずえちゃんが自宅を出る前日のお昼の事、彼は確かにある女性と外で待ち
合わせをしてホテルに行った。そして、その日の夜、家に帰らなかったのも事
実だと。
 しかし、その女性とは銀行のお客さんであって、お客さんの方から待ち合わ
せの場所を指定してきたそうだ。で、その女性の父親がそのホテルの経営者で
あって、経営難のため資金繰りの相談をしたがっていた、とということで彼の
所に仕事の話が回ってきたとか。彼は優秀な銀行マンのようだから、そのお客
さんも人伝で依頼してきたのだろう。
 なぜそのお客さんは銀行に来たり、また彼がそのホテルに直接行くこともな
く外で待ち合わせをさせられたかは彼自身未だに不可解であり、どうやら単な
る気まぐれの線が強いみたいだ。

 そして、それはそれで終わり銀行に戻ると、その日は残業を申しつけられ、
定時には帰れなかった。仕事が溜っていたらしく銀行を出たのは9時を過ぎて
いた。急いで帰ろうと駅に向かっている途中で、同僚数名と遭遇。給料日であ
ったこともあり、無理矢理夜の街へと引っ張っていかれたとか。

 すぐ人のペースに巻き込まれてしまうなんて、この人はどこか僕と似ている
なぁ、と思った。
 彼の話は続く。

 で、そのまま飲み屋のはしごをし、彼はその同僚達に引っ張っていかれるま
まにされ、ついに夜が明け目が覚めたときは、友人の6畳一間の狭いアパート
の一室にいたそうだ。
 家に帰る時間もなくすぐに出勤し、銀行についてから家に電話をいれたが、
何回も何回も呼び出し音が無表情に繰り返されるばかり。
 これは?!と思った彼は、すぐに考えられるだけの所に電話をかけてみたが
何も得るものはなかった。もちろん、こずえちゃんの実家にも電話を入れたが
いないという返事。
 すっかり動揺してしまった彼は午前中なにも手につかなかったそうだ。

「・・・なんですよ。」
 彼の目の前に煎れたてのコーヒー。濃い茶色のカップから白い湯気が薄く立
ち登っている。
「はあ・・・」
 僕は冷えたコーヒーを一口喉に通した。
「結局はすべて誤解だったわけなんですね。」
「はい、・・・偶然が悪い風に重なってしまったんですね・・・それで、」

 昼の2時頃、もう一度実家の方に電話を入れてみると、帰って来ているとの
こと。ほっと一安心した彼は、義母に状況を事細かく説明してからこずえちゃ
んを電話口に出してもらい、彼女に弁解することを申し出た。すると、
「頭冷えるまで、しばらくほっといてやりなさい。あの子の気が落ちついたら、
 私からそちらに電話を入れますから。」
・・・などと言われ、その電話がきたのが昨晩、そして今日仕事が休みでもあ
ったので朝一番の新幹線で上京したそうだ。

「それで・・・彼女の誤解は解けたんですか。」
「はい、なんとか・・・お義母さんが彼女に話してくれていたようでした。僕
 が今朝会った時、彼女の最初の言葉が”ごめんなさい”でしたから・・・意
 外とケロっとしてましたんでホっとしました。」

 僕は腕組をした。
「でも・・・どうしてあなたがここへ?僕はこずえさんに呼び出されたのです
 が・・・。」
「はぁ・・・僕もよく分からないんですが、バツだから代理として入ってこい
 といわれまして・・・。」
「そうなんですか。」
 彼女らしいと言えば彼女らしいとも言えるが・・・僕はますます女心という
やつが分からなくなっていた。
「そして・・・心配かけてすみません、とのことです。」
「そうですか・・・」

 残っていたコーヒーをぐっと飲み干し、皿に戻した。その時、《カチャリ》
と軽い音が耳に響いた。


「あぁ、何だかスっとしましたよ。」
 ずっとうつむき加減だった彼は、頭を起こしてそう言った。
「はあ?」
「いや、なんでしょうか・・・こう、言えなかった事をすべて吐き出したとい
 うか・・・他人様に聞かれると全くお恥ずかしい限りなんですが、あなたに
 こうして向かって話をしていると、なんだか自分を許してくれそうな、そん
 な感じがして・・・王様の耳はろばの耳ですか・・・そんな気がしてます・
 ・・。」
「それは・・・あなたと僕がどこか似ているからかも知れませんよ・・・。」
「そうかもしれませんね。」
「え?」
「いえ、あなたの事は彼女からちょくちょく聞かされていたんですよ、いい人
 だって。」
「はあ・・・」

 今日が初対面なのに、昔からの知人だったような、そんな気がして来るのは
どうしてだろう?
 容姿は違うけれど、もう一人の自分がそこにいると感じるせいかも知れない。
 結局、こずえちゃんはずっと一人の人間を見てきたのだろうか。僕がそうで
あったように。

「あ、もう行かないと。彼女と待ち合わせていますんで。」
 彼は思いだしたように店の時計を見て言った。
「そうですか。」
「いやぁ、本当に今日はどうもすみませんでした。」
「いいええ。」
 彼はすっくと立ち上がり、注文書を手にした。
「あ・・・」
「いや、構いませんよ。これぐらいの事だけとは非常に自分が歯がゆいんです
 がね・・・」
「それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます。彼女にも宜しくお伝え下さい。」
「はい、わかりました。あ、彼女から五代さんに、それと奥様にも・・・アパ
 ートの管理人さんって言ってましたっけ・・・宜しくとのことです。」
「ええっ!?」
「それでは、失礼します。」
 彼はさっさと支払いを済ませて店から出て行った。
 すると遠くガラス越しに頭を下げる女性がいた。その人はこずえちゃんだっ
た・・・。そして僕に小さく手を振り、旦那さんと歩いて行った・・・。

 僕はあっけに取られたまま、客の疎らな喫茶店の中でじっとしていた。
   

#12 小説・めぞん一刻【戸惑】その6 著・宮武宏尚
#12/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 5:11 (280)
小説・めぞん一刻【戸惑】その6 著・宮武宏尚
★内容




 《 疑問 》


 時計坂の、一刻館までの長い坂道を歩く。
 一歩一歩、自分を感じながら坂道を登って行く。
 右肩にあるショルダーバックを左肩に持ち変えて、一つため息をついた。

「しかし、結局おれはなんだったんだろうな・・・」
 一昨日からさっきの喫茶店までの事を何度も振り返ってみた。
 こずえちゃんの気晴らし、という事では少し役に立てたかも知れないが、こ
っちが一方的に振り回された・・・いや、こずえちゃんのペースに乗せられて
しまったというのが合っているのかも知れないな。それはそれで別に構わない
けど・・・
 ・・・知ってたんだな。僕が結婚した相手の事を。
 連絡したことはないけど、”風の便りで知りました”ていう所かも。
 それを承知で相談にきたというか、憂さ晴らしにきたというのか・・・うー
ん、いくら考えても分からない。
 こずえちゃんとは5年という結構長い付き合いだったけど、その人生という
軌跡がたまたま、また接触しただけ・・・そう、それだけのことだったのだろ
う。
「ま、いっか。」
 そう一人で納得し、自分なりにこの出来事に対してケリをつけた。

 目の前はもう一刻館だった。


「ただいま、惣一郎。」
「ばうっ。」
 ドアが開けっぱなしの玄関をくぐった。

「ただいまーっ。」
 靴を脱ぎながら声を出した。が、一刻館はシーンと静まり返っている。
「ん?」
 いつも出て来るはずの人がこない。
 スリッパを履き、靴を下駄箱にいれた。ふと下駄箱をのぞいたが、中には響
子の履物は揃っている。
「変だな?」
 管理人室の前に来ると、ドアのノブになにやらぶら下がっている。
「なんだろう?」
 それは部屋の鍵だった。ひもが付いていて、”5号室”と書かれた細長い木
の札が付いている。
「げぇっ!!」
 ノブを回してもドアが開かない。
「おーい、いないのかい?」
 返事が無い。
 トントンと軽くノックする。それでも返事が無い。
 今度は強くドアを叩いた。
「いるんだろ?ここを開けてよ!」
 繰り返し言ってもまだ返事が無い。
「くそっ。」
 玄関に戻り、サンダルを履いて一刻館の裏に回ってみるとた、この暑いのに
部屋にはカーテンが閉め切ってある。
 ガラス戸を叩く。
「ちょっと、どーしたんだよ!」
 ドンドンと繰り返し叩いていると、突然部屋の中から怒鳴り声が。
「うるさーーーーいっ!!」
 僕は一瞬たじろいだ。
「ど、どうしてだよ!」
「自分の胸に聞いてみなさいっ!」
「なんで!」
「私は何も言う気になりませんっ!!」
「響子さん!!」
「・・・・・・」
「なんで・・・」

 僕は手に持っていた5号室の鍵をじっと見た。
 彼女は怒り出したらなかなか静まらないので、一旦この場を引き下がること
にし、とりあえず5号室に行くことにした・・・。


 玄関に戻り、スリッパに履き換えた僕はパタパタという音を残しながら廊下
をゆっくりと歩いた。
 階段のきしむ音。
 耳に馴染んでいる音のはずなのに、今は冷たく聞こえる。
 階段を登りきり2階の廊下を歩き、5号室の前に立つ。
 鍵を宙にはじき受け取ろうとしたが、タイミングをはずし床に落としてしま
った。

《カチャン》

 鍵の音が廊下に響く。
 ふと気づいたが、四谷さんはいないようだ。
 おもむろに鍵を拾い、鍵穴に差し込み、1回転させると軽い音がした。
 ノブを回し、ドアを開ける。そして、昔の僕の部屋だった5号室に足を踏み
いれた。

 以前、家具なんて机と本棚2つそれともらってきたテレビぐらいしかなかっ
たのに、今この部屋にはそれらに加え管理人室に入りきらなかった洋服ダンス
やらつい最近まで春香が使っていたベビーベッドなんかがそのままおいてある。
が、まだ数人は入れる空間はまだ残っている。

 僕は畳の上に腰を降ろし、一つため息をついた。そしてゴロリと横になった。
「しかし、一体なんで怒ってんだろうなぁ・・・何も気に触るような事なんて
 してないし・・・でも、火の無いところに煙は立たないし・・・何があった
 んだろう・・・ま、2,3日すれば頭が冷えるから、それまでほっといても
 いいか。けど、下に戻れないのは寂しいなぁ・・・。」
 僕はそう独白いた。


 僕が5号室の鍵を渡されて管理人室を追い出されたのは、なにも今回が初め
てではない。数えて3回目になる。
 こうなる直接の原因は誤解等の響子のヒステリーだが、よくよく考えてみる
と僕の優柔不断な行動が大本だったりする。
 まぁ、今回もまた何かの誤解だろう・・・


 ふと目が覚めた。机の上の時計を見ると6時を回っている。いつのまにか寝
ていたようだ。
「そうだ、メシ・・・」
 管理人室を追い出された前回、前々回も彼女は気が落ちつくまで食事を作っ
てくれなかった。怒っているのだから仕方無いと言えば仕方無いが。
「しょうがねーなー。」
 立ち上がりズボンのポケットにある財布の中身を確認する。
 5000円札が一枚。
「ん、大丈夫。」
 そして、近くにコンビニエンスストアーに買物に行くことにした。



 《 暗い夜・明るい夜 》


 夜。
 買ってきたビールをチビチビ飲みながらテレビのニュース番組をぼーっと見
ていた。丁度プロ野球の話をしていて、キャスターが広島がなんだ中日がかん
だと話している。
 すると、ドアの外で足音が聞こえてきた。
「響子・・・さん・・・かな?」
 期待しつつ耳をすましていると、どうも足音はドタドタと荒々しく二人分の
ようだ。
「またか?」
 そう思った瞬間、ドアがバンと開けられた。
「やっほー、五代くーん。」
「久々にかえって参りましたな。」
「やっぱり・・・」
 僕は頭を抱えた。
 缶ビールとおつまみがいっぱい入れられている白いビニール袋を持った四谷
さんと一の瀬のおばさんが入ってきた。さらにおばさんは小脇に一升瓶を抱え
ている。
「なんですか?」
 二人はドッカと腰を降ろした。
「いやぁー、五代君はやはり男だった!」
「うん、前々から甲斐性無しとは思ってたんだけどねぇ。いや、まいった。」
「どーゆーことです?それ。」
 僕は二人の言わんとしていることがわからなかった。
「まぁまぁ、そんなことはともかく。」
「久しぶりにここで飲めますなぁ。」
「さ、五代君もビール持って。」
 おばさんはコップに酒をつぎ、四谷さんは缶ビールを開けた。
「もう、持ってますよ。」
「えー、それでは。5号室での久しぶりの宴会を祝ってぇ。」
「かんぱーーいっ!」
「・・・なーにが乾杯ですか。」
 僕はぶすっとした顔で一口、口にした。
 四谷さんはそんな僕に向かって、
「いけませんなー、五代君。酒は楽しく飲むものですよ。」
「そう、何事も楽しくやらなきゃ。」
「どわははははは。」
「頭いた・・・」
「しかし、今夜の宴会は五代君が男であったことを祝してもいるんですよ。」
「僕は始めから男です。」
「そーゆー意味じゃなくて。」
 おばさんは日の丸扇子を広げて四谷さんに耳打ちをした。
「いやだねぇ。まだ自分の事が分かっていないようだよ。」
「知らず知らずの内にやっているとは、これまた見上げたものですな。」
「ちょっと。大声で密談やらないで下さいよ。」
 四谷さんはおどけた仕草をして、
「ややっ、これほど言ってもまだお気づきでない。」
「そこまで鈍いとは、思わなかったわ。」
「ほっといて下さい。」
「しかし・・・ねぇ。」
「だから、なんの事なんですか?」
 少しいらいらしている自分に気づいた。
 そして、気を落ちつけるためにもビールを口にした。
「女房子供持ちが・・・」
「そとでこそこそと女を作っていたなんて・・・」

《ブホッ》

 僕は思いっきり吹き出してしまった。

「やはりう後ろめたいのかい?五代君。そりゃそうだろうねぇ。」
 僕は口元に付いた泡を拭いながら、
「ど、ど、ど・・・どーゆーことですか?それは?!」
「いやですなー、事実を否定しようとしている。」
「もう、現実を直視した方がいいんじゃない?」
「だから、どーゆーことなのかと聞いてるんです!」
「まぁまぁ、落ちつきなさい。」
 四谷さんに言われて我に返ると、手に持っていた缶ビールを握りつぶして中
身が溢れだし、畳の上にこぼれていた。
「わ、わ、わ・・」
 テイッシュペーパーを何枚か箱から抜取り、こぼれたビールを拭き取った。

 握りしめていた缶を置き、気を取りなおして聞いてみた。
「どーゆーことなんですか。話をうかがいましょう。」
「なに真面目な顔をしてんだい。」
「こーゆー話は飲みながらでないと出来ませんよ。」
 四谷さんは僕にビールの500ml缶を手渡した。
「絶対どこかで・・・」
 僕はその缶をダンと机に置いた。
「話がねじれてるんだ!」
「あながちそうとも思えないけどねー。」
「そんなに言うんでしたら、私からお話しましょ。」
 四谷さんは正座をした。
 珍しく真面目な姿を見た僕は一瞬ポカンとしてしまった。

「あれは一昨日の木曜日の事でありました。」
「木曜日?」
「私が仕事をしている途中で・・・」
 するとおばさんが間発いれずに、
「仕事なにやってんだい?」
「おしえたげません。」
「で、仕事をしている途中。」
 僕は話を続けさせた。
「はい、している途中です。疲れて外へ抜け出し、ぶらぶらしていて何気なく
 入った喫茶店がありました。」
「喫茶店ねぇ・・・」
 嫌な予感。
「すると店の奥の方にはなにやら見たことある後ろ姿。いつも不幸を背負って
 ますとでも言いたげな背中。そう五代君、あなたを見つけたんですよ。」
「え゛。」
 びくっとした。
「すると対面には、これもどこかで見たようなかわいー女性が座っていました。
 私は好奇心からゴムの木に隠れ、」
「ゴムの木は僕の後ろにあったんだけど・・・。」
「そんな後ろにいたのに気がつかなかったのかい?あんた。」
「・・・・・・」
「その女性を確認しようと目を凝らすと・・・な〜んと!」
 四谷さんは声を高く張り上げて、
「あの、お懐かしいこずえちゃんだったのねぇ。」
 おばさんは横で、四谷さんの話を聞きながら、一口飲んではうなづいていた。
「昔の男が忘れられなかったんでしょうか・・・彼女のあの暗い表情がお家で何
 かあったのか・・・彼女の複雑な心境を表わしているようでした。やはり、普
 通の女だった・・・」
「あのねぇ、勝手に話を作らないで下さいよ。ちっとは僕の話を・・・」
「さ〜ら〜にっ!」
「まだあるんですか・・・」
「翌日っ、たまたま立ち寄った駅前の喫茶店。またまた二人のすがたをみつけて
 しまいましたのしゃあ。」
「・・・・・・」
「この二人はしばらくは穏やかに、かつ暗く話していたのですが、そのうちこず
 えちゃんは目に涙をため、泣きだしたのでした・・・」
「あ、あれはですねぇ・・・」
「これは痴話喧嘩だったかも知れない。」
「そう、私はそのように感じましたなぁ。」
「その話をあたしは四谷さんから聞いた。二人は以前から怪しかったと。」
「おばさんが聞いてたんじゃ・・・当然響子にも・・・」
「そのようですな。」
「どわははははは。」
「やっぱりねじれていたか・・・。」
 僕は頭を抱えた。
「いやー、五代君にも甲斐性はあった!」
「その点だけは、ほめてあげよう。」
 四谷さんはまた足からずるずると穴の中に入り、上半身だけのぞかせた。
 一方、おばさんは僕に顔をよせてきた。
「でもね、女房子供持ちなんだよ、あんた。浮気もほどほどにしとかないと。」
「そんなんじゃありません!」
「じゃー、何だって言うんだい?」
「事実を聞いてくれますか?」
「今、四谷さんが話してくれたじゃないか。」
「最後の”二人は出来ていた”っつーのはなんですか。事実とおもいっきし反
 しています。」
「ほほぉ、隠された事実がある、とでもいいたげですな。」
「隠してなんかいません!」
「よーし、酒の肴に聞いたげようじゃないか。」
「本当に聞いてくれるんでしょうね。」
「くどいですなー、君も。我々が五代君に不利になるような事をいままでした
 ことがありますか?」
「よくいうよ・・・それに、今、現にやってるじゃないですか。」
「はいはい、聞いてやっから言ってみな。」
 一升瓶をどんと置いたおばさんは僕の顔をじっと見た。
 ちゃんと聞いてくれる気はあるようだ。
「実はですねー、あの時確かに彼女は僕に会いにきましたけど・・・・・・」

 僕はゆっくりと一昨日からの3日間の出来事をつぶさに二人に話した。
 話している間中、やはりじっと聞いている様子もなく不安になったが、とに
かく話すだけ話した。
   

#13 小説・めぞん一刻【戸惑】その7 著・宮武宏尚
#13/13 るーみっく☆ノベルス
★タイトル (RUMICSB2) 92/11/12 5:19 (339)
小説・めぞん一刻【戸惑】その7 著・宮武宏尚
★内容




 《 酒とため息と 》


「・・・・・・わかっていただけましたか?」
 しばらくの間、沈黙が続いた。
「・・・つまり、五代君は何もしていないとゆーことですか?」
「なんですか、その”何もしていない”とゆーのは。」
「何もしてませんっ!ただ、彼女の話を聞いてただけです。」
「なるほど・・・とゆーことは・・・私の早とちりであったと。そーなります
 な。いや、これは失礼しました。わはははは。」
「なるほどね。五代君が無実だとゆーことがよっくわかった。やっぱり、五代
 君は五代君だったねぇ。あたしはそうだと信じてたよ。」
「最初と言ってることが全然違うじゃないですか。」
「それでは・・・五代君の無実を祝してっ。」
「改めて。」
「かんぱーいっ!!」
 二人は酒を持った手を高々とあげた。
「ちょ、ちょっと、おばさん。響子の方はどうしてくれるんです?」
「どうするって?」
「だから・・・ねじまがってた話をしたんでしょ。」
「あぁー、ごめんごめん。ちゃんとあたしから話しておくからさ。」
「本当ですね?僕の話は聞いてもらえそうもないから、おばさんの口から言っ
 てもらうしか・・・。」
「どわーいじゃうぶ!五代君。ちゃんと一の瀬さんは話してくれますって。さ
 ぁさぁ、ぐっと飲んで飲んで。」
「そう、そんなことは忘れてパーッとやろうよ。」
「忘れてどーするんですか!忘れてぇ。」
「ちゃんと言っておくから、安心しな。」
「お願いしますよ。」
 机の上に置いた缶ビールを手に取り、蓋を開けて僕は一口飲んだ。
「でも、本当の事が伝わっても・・・怒りが持続するからなー、あの人。」
 僕はそう独白き、ため息をついた。

 おばさんの扇子踊りが始まったが、本当にちゃんと話してくれるのかどうか
がとても心配で、不安で、その夜は二人と一緒に騒ぐ気にはなれなかった。



 翌日。
 よく晴れた日曜日。しかし、気分は曇っていた。管理人室には足が向かない。
今はただ、一の瀬のおばさんが昨日僕が話したことを、間違えずに且つ脚色せ
ずに響子に伝えてくれるかが、一番の気がかりであるとともに、頼みの綱でも
あった。

 日が高くなっても、まだ何も進展はない。
 玄関先で掃除をしている音が聞こえてきた。竹箒とコンクリが擦れるあの音。
 僕は廊下に出て窓から見てみると、やはり彼女だった。
「どうしよう・・・」
 僕は声をかけることにした。
「ここは軽く・・・やっほー。」
 すると彼女はこちらを振り向いた。
「あ、あのっ、おばさんから話聞いて・・・くれ・・・ました?」
 しかし、僕の言葉を最後まで聞かずに、彼女はカラコロとサンダルの音を残
して、そそくさと玄関の中に入って行った。
「まだ、ダメか・・・」
 大きく一つため息をついた。
 響子の怒りはともかく、春香の顔を見れないのが僕にとって非常に辛いもの
だった。
「早く元に戻らないかなぁ・・・春香どうしてるかなぁ。僕がいなくて泣いて
 やしないだろうか・・・」
 窓枠に頬杖をついて、心とは正反対の青い空をじっと見た。


 そうこうしているうちに、管理人室に戻れないまま夜になってしまった。
 昨晩に引き続いて、一の瀬のおばさんと四谷さんはまた酒と食料を買いこん
で持ってきた。
「また・・・ですか。」
「いいじゃないですか。この5号室で宴会が出来るなんて、そうありませんか
 らな。」
「もう・・・それでなくても毎晩宴会やってるくせに。」
「ここが一番落ちつくんだよ。」
「どわはははは。」
 二人はでんと腰を降ろし、宴会の準備を始めた・・・といっても、買ってき
たものを広げ出し、おつまみの袋を開けるだけだが。
「ところで、おばさん。ちゃんと話してくれたんでしょうね?」
「何の事だい?」
「何の事って・・・昨日話したことですよ!」
 僕は声を大きくした。
「わかってるよ。そんな大きな声を出さなくても。ちゃんと昼間話したよ。」
「本当に?」
「うたぐりぶかいねー。あたしが今まで嘘をついたことあるかい?」
「いつもじゃないですか。」
「あぁ、それは嘘じゃなくて、ホラっていうんだよ。」
「わはははは。」
 四谷さんにはウケたようだ。
「上手いっ!上手いですなー、それ。」
「そうかい?どわはははは。」
 二人は笑っているが、僕はそんな気分になれない。
「・・・で、彼女、どうしてます。」
「どうしてって、いつもの通りだよ。変化なかったねぇ。」
「もう、五代君は愛想をつかされているのかも知れませんな。」
「ついに、二人は破局を迎えたか・・・。」
「そうなると、春香ちゃんがかわいそう。」
「なんでそーなるんですかっ!」
「わはははは。冗談、冗談。」
「管理人さんのそーゆー反応はいつもの事じゃないですか。」
「それはそうですけど・・・」
 おばさんは畳んでいる扇子でぽんと膝を叩いた。
「問題はすべて解決した。さぁ、パーっとやろうよ、パーっとさぁ!」
「そうそう。飲みましょう、飲みましょう。ささ、五代君も。」
 そう言われて、僕はビールを手渡された。
 落ちついて飲める心境じゃないけど、とにかく飲むことにした。


 しばらくすると廊下の方でドスドスと歩いて来る音がした。
「誰だろう?」
 そう思ったのも束の間。ドアがバンと勢いよく開いた。
「やっほーーっ、お久しぶりぃ。」
「おやまぁ。」
「おぉっ、珍しい方がやって参りましたな。」
「ど、どーしたんです?こんな時間に。」
 朱美さんだった。


「どーもこーもないわよー。」
 入って来るなり朱美さんは腰を降ろしあぐらをかいた。あいかわらずである。
 目の前のアルコール類を見て目を輝かせた。
「あたしにもちょーだいね。」
「狙ってきたんじゃないのかい?」
「でへへへへへ。」

《シパッ》

 朱美さんはいきのいい音をさせて缶ビールの蓋を開け、一気に飲み干した。
「あー、おいしっ。次ね。」
「へ?」
 2本目を手にし、それもまたたくまに喉に流し込んだ。
「いやぁー、今日はいつにも増してピッチが早いですなぁ。」
 そう、四谷さんが言ってる間に3本目もカラになっていった。

「いつもと感じ違わないかい?」
「やはり、そう思います?」
「何、三人でこそこそ話してんのよー。」
 手を休めてこっちをじっと見た。その口の回りにはしっかりと白い泡が付い
ていた。
「朱美さん、何かあったのかい?」
「何かって、何?」
「いつもと・・・飲み方が違いますよ。」
「ヤケ酒っていう感じも・・・」
 一瞬、朱美さんは顔を曇らせた。
「ふ・・・ふん。どーだっていーじゃないのよー!」
「ま、そりゃそうですが・・・」
「あたし、今夜はテッテー的に飲むわよ。」
 四谷さんは大きくうなづき、
「そうです。何があったか知りませんが、うじうじしてても仕方ありませんか
 らな。そんなときは飲むに限ります。」
「パーっといこう、パーっと。」
「そうそう、もっとビール買ってきてよ、五代くーん。」
「あぁ・・・うん。」
 僕には朱美さんが無理して明るく振舞おうとしているしか見えなかった。そ
の原因が何なのか僕が分かるわけでもないんだが。
 とりあえず、僕は買いに行くことにし、立ち上がった。
「樽ごと買ってこーい!」
 朱美さんの大きな声。
「はいはい。」
 僕は応えた。
 この時間ではいつもの酒屋は閉まっているので、夜もとっぷりと更けた中、
近くの”開いてて良かった”の店に行った。



 《 おや、こちらも。 》


「毎度ありがとーございました。」
 店員さんの声を背中にして、両手にビニール袋を持った僕が店を出たところ、
坂の下からこちらに走って来る男の人に声をかけられた。
「五代くーん。」
「は・・・あ、マスター。」
 こんな時間にこんな所で茶々丸のマスターと出会った。
「こんばんは・・・どうしたんです?息を切らして。」
 マスターは肩で良きをしながら、
「・・・うちのカミさん知らないかい?」
「朱美さん?一刻館にきてますよ。今、こうして買物してたのも朱美さんに頼
 まれたんですよ。」
「やっぱり・・・」
「やっぱり?」
「いや・・・まぁ、話は後で。先に行くよ。」
「あ、待って下さいよ。どうせなら一つ持って・・・」
 言い終わらない内に、マスターは一刻館への坂道を一目散に走って行った。
「なんなんだ、一体。」
 ビールやおつまみがいっぱい入ったビニール袋を両手にして、僕はマスター
を追っかけることにした。


 カチャカチャと缶ビールや塩ビのビール樽が互いにあたりあう音を耳にしな
がら、坂を駆け上り一刻館にたどりついた。
 ビニール袋を廊下に置き、僕は膝に手をついて肩で大きく息をした。
「はっ・・・はっ・・・き、きつかったぁ〜〜。」
 そしてドンと廊下に腰を降ろした。

 少しして落ちついてきたら、二階の方で何やら騒いでいるようだ。
「何だ?」
 すると右の方からスリッパの音がしてきた。
「何かあったの?上。」
 響子だった。
「さぁ、僕も今買い出しから戻ってきたところだから・・・」
「とにかく行ってみましょ。」
「うん。」
 彼女は大きなビニール袋を一つ手にして行った。
 僕も急いでもう一つを持って、後に続いた。


 二階にあがると大声で騒いでいた主は朱美さんとマスターだった。
「だからぁ、話を聞いてと言っとるんだよー。」
「あんたなんか、帰っちゃえばいーのよっ!」
 マスターが5号室のドアを強く叩きながら、朱美さんと口喧嘩をしているよ
うだ。
 一の瀬のおばさんも四谷さんも廊下にいる。
 僕は近寄って二人に話しかけた。
「一体、何があったんですか?」
「どうやら夫婦喧嘩ですよ。」
「そんなこたぁ、見れば分かりますよ。」
「何かマスターの方が慌てているように見えるんですけど・・・」
「その読みはおそらく当たってるだろうね。」
「どーゆーことです?」
「この二人の意見を総合して、一つの言葉で表わしますと・・・」
 僕らはマスターと朱美さんの口論をよそにして、四谷さんの話しに耳を傾け
た。
「まぁ、痴話喧嘩ですな。」
「痴情のもつれらしいよ。」
「まぁ。」
「なるほど。」
「違うったら!!」
 僕がうなづいていると、横からマスターに怒鳴られた。
「朱美ちゃんが誤解してるんだよ。」
「誤解?」
「僕が浮気したって言って聞かないんだ。」
「ほぉ。」
「マスターもやりますな。」
「そりゃー、あの手の顔から判断できるだろ。」
「そうでしょうか。」
「何、四人ごちゃごちゃいってるんだいっ!」
 マスターは今にも泣きそうな顔だった。
「とにかく、マスターも朱美さんも落ちついて。」
 僕はビニール袋を置いて言った。
「そうですよ。じっくり話し合ったらどうですか?ねぇ、朱美さん。」
「とにかくここを開けて下さいよ。僕も買って着た物、置きたいし。」
「聞いてます?朱美さん。」
 響子がドアを軽くノックしながら言った。

 しばしの沈黙。妙な緊迫感と静寂が回りを漂っている。

 すると、ドアのノブが回った。
「わかったわよ。」
 朱美さんがドアを開けた。
「とにかく、話し聞かなきゃ始まらないわよね・・・」
「そうですよ。」
「まぁ、中で話しましょう。」
 マスターを部屋に入れ、僕らはぞろぞろと続いた。


 部屋の中で話し合うこと僅か3分。
 朱美さんが笑いだした。
「あはははははっ、なーんだ、そーだったのぉ。」
「そうだったんだよ。あの女の人は俊也ちゃん所にくる嫁さんなんだよ。」
「ごめーん。あたし、知らなかったもんだから。」
「なんだか、あっという間に和解してしまったようですな・・・」
「あっさりしているもんだねー。」
 おばさんと四谷さんはタバコをふかしながら言った。
「まぁ、よかったじゃないですか。マスター。」
「え・・・うん。」
 マスターは、ほっとした表情を見せた。
「朱美さん。」
 響子が話しかけた。
「やはり、早とちりをするのはよくありませんよ。疑わしく思ったらまず話を
 聞いてみることですよ。」
「そうだよ。夫婦は話し合わなきゃ。」
「あんたらねー・・・」
 おばさんは横目で僕らを見ながら、煙草の煙をはいた。
「自分達の事を棚に挙げて、なーに言ってるんだい。」
「いや・・・あの・・・」
「・・・・・・」
 僕らはうつむいてしまった。
「いつのまにか、こちらも仲直りしていますな。」
「夫婦喧嘩は犬も食わない、か。」
「あはははは。」
 僕は笑ってごまかすしかなかった。
「まぁ、話がすんだんだから、一杯やろうよ。」
「そうですな。二組とも和が戻ったことを祝して。」
「改めてぱーっとやろうよ。」
「さんせーいっ。」
 朱美さんはいつもの調子の声で言った。
「それなら・・・と。」
「さぁさぁ、みんなビールを持って。」
 四谷さんは僕らにビールを手渡した。
「はぁ・・・」
「あたしゃ、これでいくよ。」
 おばさんは一升瓶の栓を開けてコップに注いだ。
「それでは・・・よろしいですか。みなさん、かんぱーーーいっ。」
「かんぱーーいっ!!」
 全員、一斉に飲みだした。そして、さっきまでの静かさが一気に吹き飛んだ。
「あら?」
 響子が耳を澄ます仕草をした。
「どうかしたの?」
「いえ、春香の泣き声かしら・・・」
 するとドタドタと廊下を走って来る音がして、ドアが開いた。
「管理人さん。春香ちゃん、泣いてるよ。」
 賢太郎が知らせにきてくれた。
「やっぱり・・・すみません、あたし座をはずします。」
「あ、僕も。」
「なーによー、せっかく盛り上がってきた所なのにぃー。」
「久しぶりのフルメンバーの宴会なんだからさぁ。」
「必ず戻って来るんですよー。」
「はいはい。」
 僕らは部屋の外に出た。
 ドアを閉めて、ふと響子と目があった。
 そして、彼女はすまなさそうに言った。
「ごめんなさい・・・あたし・・・」
「いーんだよ。分かってくれたら、それだけで。」
「でも・・・」
「いいって。慣れっこだから。」
「まぁっ。」
 僕はにこっと笑った。
 彼女も笑って応えてくれた。
 随分久しぶりに見たような感じがするくらいの笑顔だった。

「なにしてるんだよっ。」
「あ゛。」
 賢太郎の声でふと我に戻った。
 僕は響子の肩を今にも引き寄せようとしていた。
「あら・・・」
 彼女もうつむいた。
「ほら、泣いてるよ、春香ちゃん。」
「はいはい。」
 僕らは小走りして、春香のいる管理人室へと向かった。


 初夏の出来事だった。

                       第5話【戸惑】 − 了 −



                    参考:高橋留美子「めぞん一刻」
                                                        (C)R.TAKAHASHI
   

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